【恵海】「……なるほど」
昼休みの時間。
人通りの少ない廊下まで足を運び、今朝から書き溜めたメモを読みながらつぶやく。
まだ半日も経っていないが、晴斗様の反応を伺いつつ
瀬里沢さんの行動や言動を調査した結果、ひとつ気づいたことがあった。
それはつまり―――
【恵海】「なにひとつ、わかりませんね」
クラスの誰とでも喋るというのは元々知っていたことだし、聞き上手で
受け身がちな会話をするというのも、恭平様からの資料でわかっていたことだ。
要するに、新しい情報は一切得ていない。
【恵海】「せめて、盗聴器でもあれば……」
天野一族お抱えの諜報部隊に頼めば、
発見器ではまず見つからない盗聴器を借りられるだろう。
……が、そもそもこの件は私1人に任された仕事だ。
万一盗聴が本人にバレた際に、旦那様方へ大変な迷惑を掛けてしまうことになる。
さらに言えば、瀬里沢さんと友好的な関係を築くことが絶望的になるだろう。
だから非効率でも、自分だけを頼りにがんばるしかない。
【恵海】「……やはり、接触しなくては」
できることなら、
もう少し情報を集めてから会話するミッションへ繋げていきたかった。
しかし、私の欲する情報を手に入れるには、
本人をよく知る人物に聞き込むか、本人と会話をするしかない。
前者については、私では確実にムリだ。
仮に会話が成立しても、求める情報を引き出せる保証はどこにもない。
ならば、瀬里沢陽砂さん本人と接触する方が、私にとっては賢明と言えるだろう。
【恵海】「情けないですが……」
対人技能を上げる訓練も、お祖父さまから手ほどきを受けたものの、
悉く失敗に終わった記憶が脳裏をかすめる。
昔に比べれば、多少はマシになったものの、
まだまだコミュニケーションに問題があるのが現状だ。
【恵海】「そんな私が、どこまで通用するか……」
日本を代表する名家、天野家を預かるメイド長として。
そして、晴斗様お付きの使用人としての、プライドを賭けた戦いだ。
そんな私が、おめおめと引き下がるわけにはいかない。
だから、ここからは―――
【恵海】「勝負です、瀬里沢陽砂さん」
あなたの『友人』と言うポストを、見事に奪ってみせましょう。
……とは言ったものの。
【女子生徒D】「あ、陽砂ー。トイレいかない?」
【陽砂】「ん、いいよー」
【女子生徒E】「アチキも行く! ビックンビックン行っちゃう!」
【女子生徒D】「ちょっと、ドコ行くつもりよアンタ?」
【女子生徒E】「タコ部屋?」
なるほど。どうやら、これからトイレに行くらしい。
と言うことは、今は話しかけたらまずいはずだ。
【女子生徒D】「うっわ、ムッサそー」
【女子生徒E】「女子便よりはマシじゃね? 割とファンシーでフローリングじゃね?」
【陽砂】「それ、フローラルの間違いじゃない?」
【女子生徒E】「あ、ソレソレ! フロウがなんとか! チェケラ!」
【女子生徒D】「だからフローラルだって!」
……けど、お喋りに夢中でなかなか行かない。
これは、話しかけても良いのだろうか?
むしろ、今まで話しかけたことも無いのに、
突然私に声を掛けられたら、相手を戸惑わせてしまうのではないだろうか?
【恵海】「くっ……」
いや、ダメだ。お祖父さまも言っていたではないか。
打ち解けた会話をするためには、ある程度の厚顔無恥さは必要だ、と。
ならば、今は行くべきだ。
もしも失敗したら、その時は謝れば良い。それで、万事解決する。
……よし。
【恵海】「あの―――」
【女子生徒D】「ちょっと、早くトイレいこーよ」
【女子生徒E】「あぁ、マジ漏れちゃう! モハメド・ブリだわ!」
【女子生徒D】「きったね! お昼休みに言わないでよ!」
【女子生徒E】「モリの方が良かった?」
【女子生徒D】「重々しいわよ! 擬音をやめなさいって!」
【陽砂】「ふ、2人とも、もうちょっと声のボリューム落として……」
しかし瀬里沢さん達は、会話をしながら教室を出て行ってしまう。
私の呼びかけには応えないまま、スタスタと。
【仁川】「え!? 篠塚さん……も、もしかして、俺に話しかけた?」
【恵海】「…………」
どうやら、これは失敗に終わったみたいだ。
【仁川】「あ、あの、その……! こ、今夜は空いてるよ、俺?」
【恵海】「もしもし」
【仁川】「……え?」
咄嗟に携帯を取り出した私は、何も応答しない相手に向かって会話を始める。
【恵海】「はい、わかりました。では放課後に」
【仁川】「あ、あれ……俺の勘違い?」
どうやら、今回はタイミングが悪かったらしい。
次こそは、必ずや。
しかし、その後も結局は惨憺たる結果となった。
珍しく1人で居る所に声を掛けてみようと思うも……。
【恵海】「すいませ―――」
【女子生徒F】「ねーねーひさちゃん、この前教えてもらった乳液なんだけどぉ」
【陽砂】「あ、うん。どうだった?」
【女子生徒F】「んもぉ、さいっこぉ! ほら、ほっぺもぷるっぷるになったよー」
【恵海】「…………」
【仁川】「し、し、篠塚さん……こ、今度こそ俺に話しかけて……!?」
【恵海】「もしもし? すいません、まだ学校なもので」
【仁川】「またそれ!?」
こうして他の女子が話しかけてしまったり。
他にも―――
【陽砂】「さて、と……」
【恵海】「あ」
【陽砂】「じゃ、るーちゃん。藤崎先生のとこに、みんなのノート出してくるねー」
【本庄】「もぎゅもぎゅ……いへらぁー。ぐにゃ」
【陽砂】「ところでそのワカメご飯って、おやつ?」
【本庄】「ほーらよぉーむにゅむにゅ。んがぐっぐ」
【陽砂】「あはは……ハイカロリーだから、気をつけてね?
じゃ、授業に遅れたら中野先生に言っておいてー」
【本庄】「べぇーい」
【恵海】「…………」
【仁川】「ドキ……ドキ……。し、しのづ」
【恵海】「もしもし」
【仁川】「やっぱり!?」
そんなわけで、3回とも会話が成り立たなかったばかりか、
話しかけたことさえ認識してもらえなかった。
【恵海】「これは一体、どうすればいいのでしょう」
考えられるとすれば、タイミング。あとは声の音量と間合い。
とは言え、全部を合わせる必要はないだろう。恐らく音量が多少小さくても、
タイミングと間合いが適切であれば、向こうは私のことを認識するはずだ。
ならば上手く間合いを詰めれば、もしかしたら気づいてくれるのではないだろうか?
よし……それならば。確か瀬里沢さんは、恭平様の所へ行くと仰っていたはず。
【恵海】「であれば……第2社会科準備室でしょうか」
恭平様の仕事用として、赴任と同時に用意された部屋。
あそこの前の廊下であれば、人通りも少ない。
上手くいけば、瀬里沢さんと2人きりになれるだろう。
【恵海】「…………」
では、さっそく。
【恭平】「ご苦労様でした、瀬里沢さん」
【陽砂】「いえ。では、失礼しましたー」
どうやら、ちょうど良いタイミングだったらしい。
グズグズしている時間はない。すぐに、行動へ移さなければ。
【恵海】「…………」
身体の芯まで染みつくほどに修行した、忍術の基礎である歩法……足並み十法。
気配を気取られないよう細心の注意を払いつつも、
存在感を極限まで薄めて彼女の背後を取る。
……よし、ここまでは成功だ。
周りを見渡しても、横から声を掛けそうな人影はない。絶好のタイミングと言える。
【陽砂】「あ、これなら授業に間に合うかも……」
携帯で時間を確認した、一瞬の隙を突いて私は彼女の耳元で空気を震わせる。
適切な間合い、適切なタイミング。そしてこの場に相応しい適切な声量は……これだ!
【恵海】「あの」
【陽砂】「ひっ……」
【恵海】「私と、おはな」
【陽砂】「ひぎゃあああぁぁぁぁっっっっ!!!」
【恵海】「し……」
する前に、猛ダッシュで廊下を走って行ってしまった。
【恵海】「…………」
どうやら、これで4回目の失敗になったみたいだ。
【恵海】「…………なぜでしょう?」
【晴斗】「あれ?」
トイレから戻ってくると、
もうすぐ授業が始まると言うのに瀬里沢さんと恵海が教室にいなかった。
……と言うか、居ないのってあの2人だけ?
偶然だろうけど、珍しい取り合わせだなぁ。
【陽砂】「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
そんなことを考えてたら、瀬里沢さんが戻ってきたみたいだ。
ああ、やっぱり可愛い……って、あれ? なんだか様子がおかしいような?
【陽砂】「はぁ、はぁ、はぁ……う、ひぐっ……」
【晴斗】「……えっ!?」
【女子生徒D】「ど、どうしたの陽砂!?」
【本庄】「ほらー系ー? もむもむ、ごくん」
教室に入ってきた途端、涙を浮かべる瀬里沢さん。
【陽砂】「い、い、今、だ、誰もいない廊下で、声を掛けられて……!」
【女子生徒D】「……は?」
【本庄】「なんてー?」
【陽砂】「『あの』って耳元で言われたの……。わ、わたし、怖くなって……ひうぅ……」
【女子生徒D】「えっと……マジ?」
【陽砂】「ほ、ほんとうだよぉ!
うう、どぉしようるーちゃん。お昼に食べた、鯖の塩焼きの霊かなぁ……?」
【本庄】「ん~。いちりあるねぇー」
ワカメご飯を食い終わった本庄さんが、うんうんと感慨深そうにうなずく。
【陽砂】「や、やっぱりそうなの!?」
【女子生徒D】「鯖なら日本語しゃべんなくない?」
【陽砂】「うう、ごめんなさい……これからは、皮まで一緒に食べますぅ……」
【本庄】「それならば、ゆるされるであろー」
【陽砂】「ほんと!? だ、大丈夫かな!?」
【本庄】「るーちゃんの言葉は、不正入札よりも重く正しい。だから信じるのだー」
【陽砂】「あ、ありがとう、るーちゃん!」
【女子生徒D】「それ正しくなくね? ある意味重いけど、不正って付いちゃってね?」
なんてことだ……僕の愛する瀬里沢さんに、怖がらせるような真似をするだなんて!
【晴斗】「許せない……許せないぞっ!」
卑劣な鯖の霊め!
圧力鍋で煮込み、骨の髄までホロホロにして、美味しく食べてやる!!
【仁川】「あれ……? お、おい天野、どこ行くんだ!?」
【晴斗】「どうにもならないくらい、圧力を加えてくるよ!」
【仁川】「何が!? パワハラ上司なの、お前!?」
【晴斗】「多分、この辺りのはず……」
確か瀬里沢さんは、
みんなから集めた地理のノートをキョウ兄ちゃんに提出してきたはずだ。
と言うことは、僕らの教室とキョウ兄ちゃんのいる第2社会科準備室の間で、
鯖が青光りしたのだろう。
【晴斗】「くそ、どこに……?」
まさか鮮度だけでなく、逃げ足まで早いのだろうか? そんなバカな!
【晴斗】「って、あれ? え……じゃない、篠塚さん?」
【恵海】「ああ、天野くんですか」
廊下を歩いていると、1人で歩く恵海とバッタリ会ってしまう。
危うく名前で呼びかけちゃったけど……うーん。やっぱり名字は慣れないなぁ。
対して、恵海の方は僕を名字で呼ぶことに、何も違和感を覚えてない様子なんだよね。
この辺りは、さすがプロ……ってことなんだと思う。
【恵海】「こんなところでどうされました? もうすぐ授業が始まりますよ」
【晴斗】「そうなんだけど、ちょっと授業どころじゃないんだ」
【恵海】「……? 何かあったのですか?」
【晴斗】「うん……それが、どうやら鯖の幽霊が出たみたいで。
瀬里沢さんが襲われたんだけど、篠塚さんは見ていないかな?」
【恵海】「さぁ、見ていないですね。生臭さも感じませんでしたし」
【晴斗】「な、なんだって!?
と言うことは、鯖じゃなくてサーバーってことじゃないのか!?」
静かに青光るヤツの前じゃ、さすがの僕も圧力できないぞ……!?
【恵海】「なんでしたら、今晩リクエストいたしましょうか?」
【晴斗】「そうだね……圧力鍋を使って、骨までホロホロにしておいて欲しいかな!」
【恵海】「かしこまりました、連絡しておきます」
【晴斗】「それじゃあ僕は、向こうのサーバー管理をしてくるね!」
【恵海】「授業はフケないでくださいませ」
【晴斗】「うん、わかった! 昔のヤンキーみたいな言い回しだね!」
そして僕は、どちらが真のサーバー管理者か決着を付けるために、
廊下を勢いよく駆け出した。
【恵海】「…………」
言っていることの8割を理解しないまま、晴斗様の背中を見送る。
しかし今は、晴斗様よりも瀬里沢さんのことが重要だ。
このままでは、勝負をする前に負けてしまう。
【恵海】「まずは、一言でも……」
そう。何か会話をしないことには始まらない。
【恵海】「…………」
次の策を練らなくては。
どうやら、これからは今まで以上に忙しくなりそうだ。
【恵海】「……と、その前に」
携帯を取りだし、シェフへ夕飯のリクエストをメールしておいた。