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  【化学教師】「―――と言う感じで、置換の実験を本日は行う。火傷しないように注意しろよ~」

そんな説明を受けた僕たちは、理科室へ向けて教室から移動を開始する。

    【仁川】「ぷくくっ、聞いたか裾野辺? チカンだってよ」

   【裾野辺】「はぁ? 何が面白いんだ?」

    【仁川】「な、なんだよ、ノッてくれねぇのかっ?」

   【裾野辺】「なぁ下村さん。仁川のヤツが『さっちんの桜でんぶもチカンしたいぺろぉ。ブキキキ』
って言ってるぜ」

  【下村さん】「えぇっ!? や、やだ仁川くん、最っ低……!」

    【仁川】「ち、違うよ、そんなこと言ってねーよっ! おい裾野辺、お前っ……!」

  【化学教師】「コラ、仁川うるさい!
他の教室は授業中なんだ、余り騒ぐようなら弱酸性で優しくシャンプーするぞ!」

    【仁川】「す、すいま……って、先生優しくねっ!?」

   【裾野辺】「無類のエタノールフェチである先生が言う弱酸性だから、余り信用ならないけどな」

    【晴斗】「ふふふ……」

騒がしくしている周囲を気にもせず、僕はチラチラと瀬里沢さんを盗み見ていた。

移動教室だとほぼ向かい合う形になれるから、瀬里沢さんがよく見られるんだよね。
楽しみだなぁ……。

そうして、僕たちは理科室に到着する。

    【本庄】「ねーねーせりりん。ノートどうしたのー?」

    【陽砂】「え? どうしたの……って、あれ?」

    【本庄】「おいしかったー?」

    【陽砂】「た、食べてないよっ! あれ、どうしちゃったんだろ……?」

むむ、どうやらノートを忘れた瀬里沢さんが困っているみたいだな。

    【晴斗】「瀬里沢さん、僕のノートで良かったら食べる?」

    【陽砂】「だから食べないよ!?」

なんだ、紙を食べる類の生活をしているのかと思っちゃった。

けど僕は、そんな瀬里沢さんでも愛せるけどね……ふふふ。

なんなら、君の趣味に合わせるくらいの度量は持っているつもりさ。

    【晴斗】「ムシャムシャ」

    【陽砂】「なんでノート食べてるの、天野くんっ!?」

    【晴斗】「あ、うっかり度量が」

    【陽砂】「なんの関係が!?」

紙っておいしくないなぁ。カサカサしてるし。

    【本庄】「今のうちに取ってくればー?」

先生の方を見ると、未だ仁川くん達と喧々囂々のやり取りをしていた。

    【陽砂】「そうだね。先生に聞かれたら、説明しておいてくれる?」

    【本庄】「うん、わかったー」

そう言って、静かに席を立つ瀬里沢さん。

    【恵海】「すー、ふぅ……す、すみません」

 【女子生徒C】「え、あ、アタイのことっ!? な、な、なんだいっ!?」

    【恵海】「トイレに行きたいんですが……」

 【女子生徒C】「あ……う、うん、いいよ! 聞かれたら説明しておくから、アタイに任せなっ!」

    【恵海】「ありがとうございます」

隣の列からそんな会話が聞こえてきた。それと同時に、恵海も静かに席を立つ。

 【女子生徒C】「ど、ど、どうしよう、あの篠塚さんに話しかけられるだなんて……。
あ、アタイ、すっごいドキドキしてるぅ……」

 【女子生徒B】「わぁ……いいなぁ、うらやましい」

恵海が同級生に話しかけるだなんて珍しいなぁ。

いつもなら、例えトイレに行きたかったとしても気合いで我慢するのに。
緊張してまで声を掛けるなんて。

    【晴斗】「……はっ!? もしかして」

いけない、忘れていた!
瀬里沢さんは校内にいるであろう変質者に狙われているんだ。

多分、それを心配した恵海は彼女の後をつけて、護ろうと……
そうだ、そうに違い無い!

そう言うことなら、僕もこうしちゃいられないよ!
瀬里沢さんを心配する気持ちは、恵海と同じなんだから!

それに……ふふっ。
もし何かあっても、こっそり僕が手助けしつつ恵海のお手柄ってことにすれば、
瀬里沢さんも恵海へ好印象を抱くに違い無いもんね。

物静かで少し誤解されやすい性格をしている恵海だけど、
それならお互いすぐに打ち解けてくれるはずだ。なんて一石二鳥なんだろう!

    【晴斗】「よし……本庄さん、ごめん! 僕も忘れ物を取りに行ってくる!」

    【本庄】「おうちにー?」

    【晴斗】「教室だよっ!?」

    【本庄】「ん、いいよー。るーちゃんが許してしんぜよう。いってらー」

    【晴斗】「うん、ありがとっ」

本庄さんに見送られつつ、僕もこっそりと理科室を後にする。

    【晴斗】「早く行かなきゃ……!」

    【恵海】「ふぅ……。さてと、私も教室へ行かなくては」

    【晴斗】「あ……れ?」

怪しい人がいないか注意しつつ教室をのぞいてみると、
そこには瀬里沢さんが1人で机をゴソゴソと漁っていた。

恵海がいない……? どうしたんだろう? どこかで抜かしちゃったのかな?

ま、いいか。それならそれで、隠れながら恵海が来るのを待つことにしよっと。

    【晴斗】「よい、しょ……んっ、しょ……」

匍匐前進をしつつ、静かに教室へ入る。

すると、廊下側にある恵海の席へとすぐに辿り着いた。

ふと見ると、椅子の下に恵海のカバンが置かれている。

    【晴斗】「……あ」

そう言えば……確か恵海は、
もしものために顔が割れないような変装グッズを持ち歩いているんだよね。

ちょうどいいや。これを借りて、身につけておこう。

見られたら、恵海にはバレるかもしれないけど。
瀬里沢さんの前だったら黙っていてくれるだろうし。

    【晴斗】「よし……」

僕はコッソリと持ち出した恵海のカバンを、いったん廊下まで運ぶ。

    【晴斗】「ごめんね、恵海……」

カバンを勝手に開けることについて謝りつつ、変装道具を取り出す。

幸い、浅いところでまとまっていたため、
あまり余計なモノを見ずともなんとかなかった。

……少しだけ、見慣れた下着っぽい布があった気がしたけど。見てない、見てない。

    【晴斗】「トレンチコートと目出し帽か……よし」

そうして取り出した変装グッズを、顔が割れないように注意深くしっかりと着込む。

    【晴斗】「フシュー……フシュルル……」

ちょっと息苦しいけど、まぁいいか。

    【晴斗】「シュフゥ……」

着がえ終わった僕は、慎重に教室へと忍び込み直す。

うーん……こういう時は、
治爺さんから叩き込まれた物音を立てない歩き方が非常に役立つなぁ。

    【陽砂】「あれ、カバンに入れちゃったんだっけ……?」

ノートがなかなか見つからないのか、
机の中だけじゃなくてカバンの中も漁る瀬里沢さん。

    【晴斗】「フシュル……」

それにしても、やっぱりこうやって見ていると、
瀬里沢さんの可憐っぷりに胸がスキトキメキトキスする。

    【陽砂】「ないなぁ……うぅ、早く戻らないといけないのに」

ああ、瀬里沢さん。焦った顔もキューティーだよ。もしくはハニーだね。

どうしてだろう?こうして眺めているだけなのに、
まるで瀬里沢さんの仄かに甘い匂いが、鼻腔をくすぐってくるようだ。

    【陽砂】「ん~……あ、あった! ああ、良かっ……た?」

    【晴斗】「フシュル、フシュルル……」

そっか、見つかったんだね瀬里沢さん! 僕も安心したよ、瀬里沢さん!

    【陽砂】「あ……あ、あ、あ……?」

    【晴斗】「……?」

どうしたんだろう? 瀬里沢さんがなぜか、こっちを見て驚いているけど。

……って、こっち? あれ?

    【陽砂】「あ……、あ、あ……!?」

    【晴斗】「フシュッ」

い、いけない! いつの間にか、瀬里沢さんの目の前まで近づいちゃってたよ!

道理で良い匂いすると思った! リアルで距離近いから当然だよね!?

    【陽砂】「すぅっ……キッ―――」

    【晴斗】「ま、待って!」

    【陽砂】「むぐぅっ!?」

僕はすんでの所で口を手で押さえ、悲鳴が響き渡るのを防ぐ。

    【陽砂】「んむぅっ! へ、変質者……むぐぅっ!!」

    【晴斗】「くっ……へ、変質者だなんて……!」

僕の手から逃れようとする瀬里沢さんをもう一度捕まえて、ガッシリと押さえ込む。

    【晴斗】「……うん?」

あれ、おかしいな。これって傍から見ると、僕が変質者じゃない?

    【晴斗】「て言うか、着ている服も全く同じじゃない?」

自分の格好を改めて思い返す。

    【晴斗】「……って、本当に同じだ!?」

も、も、もしかして、変質者の正体は……!

    【陽砂】「むぅ! むぐっ……ん~! んんん~~!!!」

僕から逃れようと、それこそ必死に身体をよじる瀬里沢さん。

その表情には、うっすらと涙が浮かんでいた。

    【晴斗】「あわ、あわわわ……」

ど、ど、どうしよう!? とりあえず当て身で気絶させる!?

……って、素人の女の子相手に、そんなことができるわけないよ!

    【陽砂】「んぐうぅぅ……ひぐっ、う、んむうぅぅ~~!!」

大きな涙をこぼしながら、瀬里沢さんがますます僕の腕の中で暴れる。

か、解放したら僕がとんでもないことになるし。
かと言って、このまま拘束し続けたら僕がとんでもないことになるし……。

これ、まさに詰んでるって言う状態だよね?

    【晴斗】「……だ、ダメだ! 考えるんだ、僕!」

まだ何か手があるはずだ……!

    【恵海】「まだ、戻られてなければ良いのですが……」

ノートを取りに教室へ戻ると聞こえた私は、
瀬里沢さんを追って教室へと向かっていた。

一旦、本当にトイレへ寄って少し時間差を作ったし、
これならわざとらしくない鉢合わせになるはず。

さすがに、静かな教室で2人きりになれば私の声も彼女に届くだろう。

上手く行けば、
これを切っ掛けにしてちゃんと会話できる関係になれるかもしれないし……。

    【恵海】「がんばらなければ」

自分自身の成長のために。

そして何より、旦那様と奥様のご期待に応えるためにも成し遂げなければいけない。

そう考えながら、
自分の存在を誇示するかのようにしっかりと物音を立てて教室の扉を開ける。

すると―――

   【謎の男】「ひぃっ!?」

    【陽砂】「んんんっ!!」

    【恵海】「なっ……!?」

その瀬里沢さんが、目出し帽にトレンチコートと言う
明らかに不審な格好をした男に羽交い締めにされていた。

    【陽砂】「んむぐぅっ! むうぅ、むうぅ~~!!」

私を見つめながら、涙目で助けを訴える彼女。

一方、男の方はと言うと……。

   【謎の男】「あぁ、よかった……」

あからさまに安堵の吐息を漏らしていた。

良かった? それは、対処できそうな女に見られたのが良かったという事だろうか?

……なるほど。どうやら私のことを、ただの女子学生と思っているらしい。

であるならば……先手必勝!

    【恵海】「フッ―――」

   【謎の男】「え?」

間抜けな声を漏らす男の元まで、私は一瞬で間合いを詰める。

そして、宣言もなく。覚悟もさせず。

下半身に込めた全霊の力をもって、相手の眼前で飛び上がる。

   【謎の男】「なっ……!」

    【恵海】「シッ!!」

   【謎の男】「ぼげぇっ!!?」

小細工は何ひとつとして使わない。

基礎的な技術のみで構成された……だからこそ、
純粋で純然たる威力と、限界に迫るスピードを誇る跳び蹴り。

瀬里沢さんの顔を避けた私の足裏が、男の顎に思い切りめり込む。

一瞬遅れて、何千何万と繰り返してきた人体の急所を突く感覚が、
足先から伝わり確信する。

―――取った。

    【陽砂】「きゃっ!?」

そして、相手を蹴り飛ばすと同時に、男の腕から強引に彼女を奪い返す。

私の着地に合わせるように、机を吹き飛ばしつつ男が壁に叩きつけられた。

   【謎の男】「あ……が、がが……」

跳び蹴りのインパクトか、壁に激突した衝撃か、あるいはその両方か。

男はピクピクと震えながら、その動きを止める。

まだ気は抜けないが……どうやら、気絶したみたいだ。

    【恵海】「ふぅ……」

    【陽砂】「あ、あ、あの……」

ふと気づくと、腕の中には助け出した彼女……
瀬里沢さんが、不安そうに私を見つめていた。

    【恵海】「あ……も、申し訳ございません。身体は、大丈夫でしょうか?」

解放した彼女が、私の前に立つ。

    【陽砂】「その……え、えっと」

    【恵海】「……?」

どうしたのだろうか、口ごもってそれ以上の言葉を続けない瀬里沢さん。

恐怖か、それともどこか身体を打ったのか……後ほど、保健室へ行ってもらおう。

しかしそれよりも、まずは―――

    【恵海】「離れていてください。この男の正体を確認し、警察へ突き出さなくてはいけません」

    【陽砂】「あ……う、うんっ」

男の前に立ち、その怪しげなマスクとコートをはぎ取る。

すると、そんな服の下からは……。

    【恵海】「え?」

    【晴斗】「う……うぅ」

晴斗、様?

……って、良く見たら、この目出し帽とトレンチコート、私の変装セットでは?

と言うことは……ええと。状況が少しわからないけれど、もしかして。

いや、もしかしなくても。

    【陽砂】「あの……篠塚さん?」

    【恵海】「っ!?」

すぐ後ろから話しかけられた私は、
顔を見られないように晴斗様へトレンチコートを被せる。

恐らく……だけど、状況が全てを物語っている。

    【恵海】「な、なんです、か?」

事の成り行きを察した私は、青くなりながら返事をする。

    【陽砂】「あのね、助けてくれてありがとう。
篠塚さんがいなければ、わたし今頃どうなっていたかわからなかった」

    【恵海】「そ、そんなこと……ない、と思いますよ?」

そう。なんせ、相手は晴斗様だ。

    【陽砂】「ううんっ、そんなことあるんだよっ! 篠塚さんは、わたしの恩人だもんっ」

    【恵海】「恩、人……?」

いったいどの辺りが、恩を感じてもらえる部分なのだろう。

    【陽砂】「ほんと、ありがとう……すっごいかっこよかったよ、篠塚さん」

    【恵海】「そ、そうで、しょうか?」

すぐそばの床で伸びているご主人様こと、
晴斗様の存在に、久しく感じなかった焦りと緊張で冷や汗が噴き出す。

    【陽砂】「あっ……それで、犯人って誰だった……? この学校の人?」

    【恵海】「ええと……」

どうする? ここは、なんて答えれば良い?

罪無き誰かに冤罪を被ってもらうか、存在しない誰かを犯罪者に仕立て上げるか……。

    【恵海】「…………」

考えろ。瀬里沢さんに、ご主人様だとバレるわけにはいかない。

どうにかしてこの窮地を脱しなければ、
天野家メイド長としての名折れになってしまう。

    【恵海】「くっ……」

……ここは、後者しかない。

見た目通りの見知らぬ中年男で、
顔が醜く腫れ上がってしまったため、見ない方が良い……よし、これだ。

そして、うやむやの内に『警察へ突き出す』と言って、私が運び出せば問題ないはず。

    【陽砂】「……篠塚さん? 知ってる人だったの?」

    【恵海】「あ、いえ。それが、全然知らな―――」

    【晴斗】「ん、んん~……あれ? 教室?」

    【恵海】「い、人……で?」

作戦を開始しようとした矢先、晴斗様がコートをどかして起き上がってしまう。

    【陽砂】「えっ……あ、天野くんっ!?」

    【恵海】「せ、瀬里沢さん、これはですね、その……」

    【晴斗】「あれ、瀬里沢さんに、篠塚さん? どうしてココに?」

    【陽砂】「そっか……天野くんが、そうだったんだ……」

晴斗様を視界に収め、状況を把握……いや、
猛烈に誤解したのであろう瀬里沢さんが、怒りのためか小刻みに震える。

    【晴斗】「え、え? 2人とも、なにを―――」

    【陽砂】「最っ低!!」

    【晴斗】「へぶらっ!?」

晴斗様を思い切りひっぱたいた瀬里沢さんが、走って教室を飛び出してしまう。

    【晴斗】「え……あ、あれ?」

痛んでいるであろう頬や身体の節々のことを忘れた様子で、
ただ呆然と瀬里沢さんの走り去った方向を見つめる晴斗様。

    【晴斗】「えっと……恵海? 最低って……僕、いったい何を?」

    【恵海】「晴斗様」

混乱を極めるご主人様に対して、私ができることは、もうひとつしかない。

……そう。

    【恵海】「申し訳ございませんでした」

渾身の土下座だけだ。